怪しい人になってしまった
ビジネス書を読みながら、声を出して笑ったのはいつ以来だろうか。
そう自問してすぐに、「いやそんなことは初めてだ」、と気がついた。
「青年失業家」を名乗る、元・電通のコピーライターであった著者による、『読みたいことを、書けばいい。』。
この本を読了した時に感じた最初の感想だ。
同作は、いったい何の本なのだろう。
文章術の本なのかと思えば、就活本のような気もする。
そもそも、ビジネス書のつもりで読んでいたが、お笑いの本のような気もする。
「トラック運転手」
「プノンペンのジョー」
「リンゴアメの古田」
「ハーバード流スタンフォード術」
・・・、
詳しくは同作本文に譲るが、今これらのキーワードを思い出しただけで、カフェでMacbookを開きながらニヤニヤする怪しい人になってしまった。くやしい。
読書メモ
(※個人的なメモのため、一字一句が本文と同じではありません)
これ(あなたはゴリラですか?)を読んで以来わたしは、「自分が読みたいことを書けば、自分が楽しい」という原理に気がついた。
きっかけは2015年、電通在職中に依頼されて『街角のクリエイティブ』というウェブサイトに映画評論を書いたことだった。このサイトを主催する西島知宏さんが、私がTwitterでたまに観た映画の感想を短く述べていたことに注目していたのだ。
ただ、自分の中で、やれと言われてもしたくないことと、やるなと言われてもしたいことがはっきりしたから、生き方を変えただけなのだ。そうして無職となったわたしは「青年失業家」を名乗った。
退職して、さまざまなWebサイトに寄稿していると、いくつかの大手出版社から「あなたの本を出したい」というオファーを頂いた。
私が随筆を定義すると、こうなる。「事象と心象が交わるところに生まれる文章」。
事象とはすなわち、見聞きしたことや、知ったことだ。世の中のあらゆるモノ、コト、ヒトは「事象」である。それに触れて心が動き、書きたくなる気持ちが生まれる、それが「心象」である。その2つが揃ってはじめて「随筆」が書かれる。人間は、事象を見聞きして、それに対して思ったこと考えたことを書きたいし、また読みたいのである。
事象寄りのものを書くならば、それは「ジャーナリスト」「研究者」であり、心象寄りのものを書くのであればそれは「小説家」「詩人」である。それらは、どちらもある種の専門職というべきものである。そのどちらでもない「随筆」という分野で文章を綴り、読者の支持を得ることで生きていくのが、いま一般に言われる「ライター」なのである。
趣味の定義は「手段が目的にすりかわったこと」。
15文字で言う。15文字くらいでまとまらないと、広告メッセージとしては長すぎる。
コピーライターはとにかく短い文章で相手に伝えることを考える。
具体的な利益に置き換え、「自分の問題」にさせる。当たる広告は、人間の欲望に関わる「気にしていること」を喚起していることが多い。
良い広告コピーとは、「わかりやすい言葉で書かれているが、ちょっと発見があるもの」。
「想像力と数百円 新潮文庫」。これは糸井重里氏による日本の広告史上に残る名コピーだが、どこにも難しい言葉は使われていない。
「有能な科学者とそうでない科学者の差は、最初に立てる仮説の違いである」。これは、ノーベル賞受賞者、利根川博士の言葉だ。科学の世界では、考えるべき課題に対して、まず「仮説」を立てる。
マイケル・ジャクソンに「マン・イン・ザ・ミラー」という名曲がある。「世界を変えたい?いや、それならまず鏡の中の男、つまり自分を変えなきゃ何も始まらないだろ」と呼びかける歌である。
就職活動では、2つしか聞かれない。「お前は何をやってきたんだ」と「うちに入って何ができそうなんだ」、この2つだけだ。
志望動機は、どうでもいい。嘘を言うぐらいなら「名前を知っているから受けに来ました」の方がよっぽどいい。それよりも、自分の話をしよう。採用担当者が聞きたいのはそっちだ。
本当だとしても、いっぺんにたくさん言われたら覚えられない。いちばん伝えたいことを1つだけ言う。これが正しい自己紹介である。
相手に訊ねさせることが大事なのだ。問わず語りは、鬱陶しい。ズバッとひとこと言えば相手は聞いてくれる。
その「ズバッとひとこと」こそ「キャッチコピー」なのである。エントリーシートにダラダラ何かを書いても誰も読まない。採用担当者は、字の多いESを読むのに疲れている。
私は、相手に訊ねさせることが大事だと考えた。「学生時代キミは何をしてきたんだ」と訊かれたら一言だけ「ここに書いたように、トラックの運転手です。今日は仕事を休んで来てます」しか言わない。すると面接官は「なんだそれは」と食いついてくる。そこでゆっくり話をする。聞きたいのは先方なのだから慌てる必要はない。
「御社が私を必要としている」と書いた志望動機に関しても、ふざけているようだがまったく違う。「募集要項」を発表したのは、その企業の方だ。私はそれを見て応募したのだから、間違っている点は何もない。
普通のことを普通に書いて東大法学部の学生に勝てるわけがない。
ESで興味を引いて、詳しく話すから面接に呼んでくれ。これが私の取った戦術だ。もし、あなたが学生時代、縁日の屋台のアルバイトをしてリンゴアメを記録的な数売りさばいた思い出があったとする。ならば、ESには自己紹介をくどくど書かず、「私はリンゴアメの古田と呼ばれていました」と書くのである。
そして案の定、突っ込まれたら、待ってましたとばかりに、どうやってそんなに売上を伸ばせたのかを話せばいい。面接担当者は学生が帰った後、印象に残った人の話をする。「リンゴアメの人いたじゃん。これ。古田」「ああ、リンゴアメの古田。いいね。残しとこうか」。こうして人は次の面接に進むのである。
「プノンペンのジョー」理論。
「私は交換留学生としてカンボジアに行き、その土地の問題と貧困について研究し、国際的な支援の方法について総合的に学びました」。この答えは0点だ。なぜか。それは、具体性がゼロだからだ。
人にせっかく聞かれたことは、情景が浮かぶように答えないと、決して覚えてもらえない。
「2017年の4月4日でした。ひどい豪雨の夜で、大きな雷が落ちてプノンペンの街は大規模な停電になったんです。私がいたレストランも真っ暗になって、暗闇の中で一晩過ごしました。その時にレストランのオーナー、ジョーさんという方が、停電を謝罪しながらも、こう言ったんです。この国にはまだまだ支援が必要なんです、と。そして私、気づいたんです」という風に話す。
まるで目に浮かぶように話をすれば、「ほうほう、それで君がカンボジアで気がついたことは具体的に?」とさらに訊いてもらえる。これが「プノンペンのジョー」理論だ。
そもそもプノンペンもジョーも、私の作り話である。
「その作戦で、御社に内定を頂きました」と喜びの報告をしてきて、同じ会社の仲間になった人も何人かいた。私自身は1993年、全く同じESを10社に出して、全く同じ話をして、全然業種の違う4社から内定をもらった。
就活は、受かる落ちるの選別の場ではなく、単に企業の業務と人材の能力のマッチングの場にすぎない。とある一つの企業とマッチングしなかろうが、別に失うものはない。日本に法人企業は約170万社あるのだ。
日本国憲法第22条第1項では職業選択の自由が定められている。人生でどんな職業を選ぶかを決めるのは、他人ではなく、あなたなのだ。
「広告業界に行きたい」という学生さんは多いが、「行きたいと向いてるは違うから、まずそこを考えよう」と伝える。
自己紹介と志望動機からなるエントリーシート、そして面接で話すことは、思いがけないことに、あなたが書く「随筆」と同じものなのだ。今までの人生で触れた「事象」がある。それによって生じた「心象」があなたの現在の立ち位置を決めているし、将来の理想や願望を決めているはずである。
それを順を追って書けばいいし、言えばいい。しかも、一番大事なことをピックアップして、読んだ相手の心に情景が浮かぶように、伝える。そしてそれには、特定の企業のような「ターゲット」など必要ない。相手のためではなく、まず自分が自分を理解するために書くのだ。
つまらない人間とは何か。それは自分の内面を語る人である。少しでも面白く感じる人というのは、その人の外部にあることを語っているのである。
この人たちは、自分の内面を相手が受け容れてくれると思っている点で、幼児性が強いのである。文章でも往々にしてこのように「私はつまらない人間です」と触れて回るようなことが起こる。
書くという行為において最も重要なのはファクトである。ライターの仕事はまず「調べる」ことから始める。そして調べた9割を棄て、残った1割を書いた中の1割にやっと「筆者はこう思う」と書く。つまり、ライターの考えなど全体の1%以下で良いし、その1%以下を伝えるために後の99%以上が要る。
一次資料に当たる。ネットの情報は、また聞きのまた聞きが文字になっていると思って間違いない。
ググる、wikiる、新書やムック本を買う、では調べたことにならない。
資料の質、数、調べやすさ、人的サポート、費用負担の少なさ、どれをとっても現状で図書館に勝るものはない。
開架式の良いところは、なんとなく自分が知りたいことに関連ありそうな本を片っ端から見られる点だ。思わぬ発見に出会う、それも開架の魅力である。
国立国会図書館は、Webサイトがこれまた図書館として日本一充実している。「デジタルコレクション」ではかなりの点数の図書の全ページがデータ化されており、自由に閲覧できる。
司馬遼太郎はとにかく「調べること」の極みのような作家だった。彼が古書街に行くと、トラックいっぱい資料を買うので、古書街全体がしばらく仕入れのために休みになると言われた。私など、司馬遼太郎の本で読んでないものがもうないことが人生の悲しみである。
開高健は、広告コピーライター、ルポ・随筆を書くライター、そして小説家と3つの立ち位置を横断して生きた作家である。ライターを志す人は、彼が書いたものの立ち位置をそれぞれ検証することで、無数の気づきがあることだろう。『輝ける闇』と『ベトナム戦記』。
本を読むことはあらゆる文章に活かせる。
本という高密度な情報の集積こそ、あなたが人生で出会う事象の最たるものであり、あなたが心象を抱くべき対象である。
文章を書いて人に見せるたびに、「それは誰かの役に立つか?今までに無かったものか?」と考え抜けば、価値のある意見には、必ず値段がつく。
書くことはたった一人のベンチャー起業だ。わたしは、なかなかにいい給料が振り込まれていた電通という会社を、なんの保証もなく辞めて50代を迎える。それは自分がおもしろがれることが、結果として誰かの役に立つ、それを証明したいからなのだ。
悪い言葉を発すると、悪い言葉は必ず自分を悪いところへ連れてゆく。良い言葉を発すると、良い言葉は必ず自分を良いところへ連れてゆく。
「書けば、人生なんか、ある日、パッと変わるんや」
まずは自分が読んでおもしろいと思えるものを書いてみてほしい。書けたらぜひどこかに発表してほしい。今は、ネット上に自分の文章を載せるスペースは無限にある。
この本で繰り返し述べている「事象に触れて生まれる心象」。それを書くことは、まず自分と、もしかして、誰かの心を救う。
まとめ
読み終えて、「大学生に戻って、就活をもう一度、やり直してみたい」、と思った。
(もしかしたら、転職活動にも応用できるかもしれない)
そして何より、著者が仰るように、「自分が面白がれるものを書いて、インターネットの世界に発信してみたい」、とも思った。
出会えて良かった一冊です。